平成21年8月中旬の記事




8月20日
金大中元韓国大統領が18日に死去しました。同氏の評価には様々な見方が出ていますが、日本のマスコミの見方にはかなりの偏りがあったように思います。KCIAによる拉致事件が起きたのは1973年のこと、場所は九段のホテル・グランドパレスでした。

当時私の勤務場所は市ヶ谷の情報機関でしたから、組織としても相当の関心を持たざるを得ませんでしたし、個人的にもすぐ近傍で起きたこの事件には強い関心を持ちました。私も当時の複雑な日韓関係については勉強不足で、マスコミが伝える朴正煕大統領を対角に置き、金大中氏を評価する論調に大きく影響された記憶があります。

今朝の産経抄が次の様に書いています。「何度も死の危険にさらされ、6年を獄中で過ごし、4度目の挑戦で大統領の座をつかんだ不屈の人生にも敬意を表したい。一方でその罪にも、触れないわけにはいかない。」産経抄がいう罪とは、大統領に就任してからの業績を言っているのでしょうが、拉致事件当時の朴正煕政権にとって金氏は明らかに邪魔者、朴政権との関係を重視する日本政府にとっても目の上のたんこぶのような存在だったのです。

金大中氏は徹底したリアリストだったそうです。金正日とのトップ会談でノーベル平和賞を受賞しましたが、その陰に5億ドルという北への巨額の資金提供が行われていたことが後に明らかになりました。これも彼のリアリスト振りを示すもの、目的達成のためには陰の手段も辞さないのでした。産経抄が書いている北朝鮮工作員、辛光洙容疑者の北朝鮮への送還もその一環でした。太陽政策にも係わらず、北朝鮮は核とミサイルの開発を継続しましたから、金大中氏の北朝鮮の意図に対する見積は全く誤っていたと言えましょう。

かつて米韓首脳会談でブッシュ大統領に「this man」と呼ばれたことは、金大中氏に対する米側の評価の現れでした。


8月19日
総選挙が公示され、いよいよ選挙戦に突入だと思いましたら、既に終盤戦なのだそうです。民主党優位は揺るがない模様ですが、民主党政権への懸念は深まるばかりで、憂鬱さが益々つのります。米国では民主党、共和党どちらが政権をとっても米国という国の根幹が揺るぐことは考えられませんが、今回の日本の場合は違います。

民主党はマニフェストで政策をアピールしていますが、マニフェストに書かれていない政策こそが日本を崩壊させるのではないかという懸念が消えません。例えば、

*「定住外国人への地方参政権付与」 民主党の日頃の主張ですが、マニフェストに書かれていません。
*「日教組主導の教育」 マニフェストに「現在の教育委員会制度を抜本的に見直し、教育行政全体を厳格に監視する「教育監査委員会」を設置する。」とあります。国旗・国歌の尊重を導いてきた教育委員会を廃止し、日教組が監視する体制を作るというのです。
*「国の安全保障の軽視」安全保障という項目の記載はありません。全く無視されているのです。

また、05年のマニフェストに「民主党沖縄ビジョン」というものがあります。それによれば、「沖縄の「自立・独立」を着実に進めるためには、地域主権のパイロットケースとしての「一国二制度」を全国に先駆けて導入する必要がある。」と書かれています。沖縄を日本から分離し独立させようという政策を行おうとしているのですが、これもマニフェストに触れられていません。

これらの他にもマニフェストに書かれていない様々な裏マニフェストがあると考えられます。鹿児島の日の丸切り貼り事件は、そのような民主党の体質そのものを象徴する事件でした。甘い話には裏があるのは庶民の常識ですが、甘い話に庶民達が騙された事例は枚挙に暇がありません。

ある人が書いています。「民主党は左から右への寄せ集め。そのいわば弱点を強みにしている。左翼層にはサヨクやら社民党との連合として票を受け入れさせ、自民に居た小沢・鳩山・岡田がいるから心配ないと保守層を安心させる。そして左翼から自民支持まで票を奪い取る。」民主党のトップにいるかつての自民党員も、政権欲しさにサヨクの力を借りる事に汲々としている姿は、醜いものです。


8月18日
夏休みで一週間休載しました。孫と一緒に盆の行事をやり、少しでも日本の伝統を伝えたいと思うのも歳のせいでしょうか。三回忌を終えた亡母の遺品を整理していましたら、支那事変で各地を転戦していた父から母への手紙数十通が見つかりました。拾い読みするとその中には当時の支那の状況を伝える部分があり、興味深いものがありました。一部紹介しますと、

「我々がこんなに骨を折っているのに、支那人たちは揃ってお正月をしたり、親戚にお客に行ったりしている。そして早く匪賊を討伐してくれと勝手なことを言っている。お前等の親戚や兄弟や隣人で匪賊になっているのが大勢いるのに、何故早くやめさせないのか。こんなことを言ったって無駄、我々の力に従っている彼らだもの、我々が色々と教えてやっても彼らは平和にするための努力はしない。我々が若しいなくなったら自分らは殺されると思っているからだ。だから積極的に日本軍を援助するやうな奴はいないのだ。いくら支那の現状や海南島上陸や京漢線南段の進攻など話をしたって信じないし、凡て半信半疑だ。・・昨夕は敵が我々の城を奪取するというので緊張して一晩中警戒していたが、終に来なかった。お蔭で眠い。食物と弾丸は五月頃まで居てもびくともしないが、故郷のことが知れないのには困った。・・」

このような当時の中国の状況は、各紙の終戦記念日特集などで時たま伝えられる日本軍の蛮行とは全く異なったもの、日本軍の警備の下でゆっくり正月を過ごす支那人たちの姿があります。とは言え、中国民族の特性とも言うべき面従腹背の姿が透けて見えます。

父は写真が趣味だったらしく、当時の写真が数十枚残っています。宣撫工作を行いながら匪賊討伐をするという両刀使いを強いられている日本軍の姿が見えます。その中には、日本語学校の生徒と父の姿、何かの行事で賞品を並べた机の側で何か食べたり談笑している支那人と日本軍人達の姿などがあり、当時の雰囲気が分かります。

日本語学校 支那人との交流