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由良2佐の戦史記事


                           H26.06.18
                          

 戦訓いれざらば、猛訓練を! -言葉の独り歩き-


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 「百発百中の1門の砲は、百発一中の砲100門に勝る」とは、日露戦争終結後、東郷平八郎聯合艦隊司令長官が行った聯合艦隊解散の辞にある言葉だそうです。解散の辞とありますが、大正の半ばまで、聯合艦隊は戦時等に臨時に編成されるものでした。このため、日露戦争という戦時が終了したことにより、解散されることとなったのです。
 その後、第1次世界大戦後ワシントン軍縮条約により、日本海軍は当時の海軍の主戦力であった戦艦の隻数を、当時仮想敵としていたアメリカの保有数の6割に抑えられました。このためワシントン軍縮条約は海軍の作戦構想に大きな影響を与えました。それまでの海軍の作戦構想は、日露戦争の時と同じく、日本近海に配置されたアメリカ艦隊を早期に攻撃撃破し、その後侵攻が予想されるアメリカ主力艦隊を、日本近海で迎え撃つというものです。しかし、戦艦の保有数がアメリカ海軍の6割では、この邀撃作戦の最終段階に予想される艦隊決戦に勝算が立たないというのが当時の海軍の考えでした。
 この考えは、日露戦争時の第2艦隊参謀でその後海軍大学校長にもなった佐藤鐡太郎中将が行った研究に起因します。佐藤中将は過去の戦例を調べ防衛側の艦隊は攻勢側の艦隊と比べ劣勢でも、その兵力が相手の7割以上なら勝ちを収めた事例が見出せるが、7割を切るとそのような例がなくなるという研究結果を導きました。佐藤中将は、その著書『帝國國防史論』や海軍大学校教官時の授業でこの考え方を普及したため、この研究結果は、海軍に大きな影響を与えます。
 この時以降、冒頭に述べた東郷司令長官の言葉は、日本海軍の精神的支柱となったといわれています。自軍の戦艦の命中精度を上げ百発百中にすれば、数的には優勢ですが命中精度では劣る敵艦隊に勝てるというという意味付けになりました。つまり戦艦の隻数の劣勢は、訓練で補えばいいということになったわけです。ここに「月月火水木金金」という休日も関係なく猛訓練を行うという日本海軍の伝統が始まりました。

 その後のロンドン軍縮条約で補助艦の保有数を限りなく対アメリカ7割弱に抑えられた海軍ですが、この時には条約の受け入れ問題が国会での「統帥権干犯」問題に発展し、時の首相の銃撃事件にまで至ります。また、海軍部内でもこの問題に起因し条約派、艦隊派という派閥が発生し、その後の海軍の人事に波紋を投げかけます。
 しかしながら、日露戦争時の聯合艦隊は、ロシア太平洋艦隊との黄海海戦時、戦艦の隻数比が4:6で対ロ比7割に満たず、日本海海戦でも4:7若しくは4:11でやはり対ロ比7割に満たなかったのです。連載第7回は「『航空兵力』≠『航空戦力』」という副題にしましたが、「兵力」は単純な数値です。しかし「戦力」は単なる数値ではなく、いろいろな構成要素が複雑に影響し合います。戦史の研究等で、これら「戦力」を構成する各種要素を分析し数値化すると極めて理解しやすくなるのは事実です。しかしその際、その構成要素の重み付けに失敗すると、若しくは恣意的に重み付けを行うと、その戦史の研究結果は怪しくなります。つまり「歴史の誤用」ともいうべき状態になります。
 「百発百中の1門の砲は、百発一中の砲100門に勝る」という東郷平八郎聯合艦隊司令長官の言葉から、いろいろ書いてみました。この言葉は、発せられた後、その意図に関わりなく独り歩きしてしまった例の一つではないかと感じています。 (続く)


          幹部学校戦史教官室 由良富士雄


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