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死生観ノート


                           2015.6.28


 「あなたの“死にがい”は何ですか?-死生観ノート」(36)


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36 まとめ(2)―最終回

ウ 日本古来の死生観と形成事象の変化の影響

本連載を通して、日本人の死生観が、これを形成する要因、すなわち、日本の文化、伝統、倫理観等が変化したとき、あるいは異なった理解をされたとき、古来有している死生観とは、別の形をなすのか否かを見てきた。特に、今述べた形成要因、簡単に表現すると日本人の考え方が急激に変化したと思われる時代、明治の維新から太平洋戦争を頂点とする時代に着目し、兵士の死生観を対象に考えてきた。
 実際に、日本古来の死生観と、太平洋戦争における兵士の死生観とが異なっているのか、まとめてみる。

〇 兵士の死生観と日本古来の死生観との関係

・ 兵士は、死にあたって、残された人々に、正しい死に方をしたと記憶されたかった。国民みんなが自分を誇りに思い、活躍を見ていると信じていた。日本人が兵士に託したのは、武力をもって外敵から我が国と国民を守ることであり、そのために戦力的に不利な我が国の兵士は、最後の最後まで任務を放棄せず、最後の一兵であっても、より多くの敵を倒すための不屈の精神力を望まれた。そしてその精神力を養うため、各種の訓練と教育がなされ、また国民の間にも、兵士を讃え誇りに思う感情が芽生えていった。
⇒この死生観は、日本古来からの「霊魂が生者に影響を及ぼすのは、残った者達が死者の記憶を何らかの形でもっている場合で、現世の何人も死者の記憶を失った後は、霊魂は、“宇宙”の中へ入って行き、次第に融けながら消えてゆく。このため、日本人は死に臨んで、残された人々に、より美しく、より清く記憶にとどめて貰えるよう死に方を整える。少なくとも、後ろ指を指されたり、属する社会に迷惑を掛けるような死に方は許されない。」という死生観を継承したものであろう。
 しかし、ここで言う「正しい死に方」とはどのようなものであるのか、どの様な死に方が「後ろ指を指される」ものなのかは古来からの死生観と同一であるとは言い切れない。古来の死生観で言う迷惑を掛ける周囲の人々の範囲は、少なくとも死者を見知っている辺りで、これが太平洋戦争の時代になると、兵士の守らなければならない対象、即ち、日本国民全体となる。その代わり、兵士を祀ってくれる対象も、国民全体へと広がる。また、兵士にとっての正しい死に方としても、ただ戦場で死ぬことではなく、英雄として、最後まで戦意を持って戦った後の死を求めていた。
 このように、古来からの死生観を基底としているが、兵士が考える「残された人々」の範囲は極限まで拡大し、正しい死に方の判断も、妥協の許されない厳しいものになった。

・ 兵士は、死に対する恐怖を持ってはならないと自分を律していた。死を恐れるのは兵士らしくないとされた。出撃する兵士は、武士道における死の部分を強調された教育を徹底して受けてきた。いざという時は死ぬ方を選べ、死ぬべき時に生きようとするのは潔くない、死に際して躊躇する様な見苦しい行いはするな、清い死を求めよ、そして散華したら再び靖国で合おう、これが合い言葉であった。
⇒この死生観は、「魂は、子孫の記憶の中に生きており、その記憶にどう死者が映っているかで、魂の祀られ方が異なってくる。特に、死ぬときの姿の記憶が、最も鮮明なものである。」という考え方を拡大したものと考えられる。
 特に、太平洋戦争期を中心とした武士道による精神教育からは、死に際の美しさ、選択するなら死を採るべきという考え方が導かれた。日本古来からの死生観では、無理矢理死ねとは言っておらず、やむを得ず死ぬときは見苦しくない様にせよと言う程度である。太平洋戦争までの用兵思想が、精強な兵士の育成と戦力化を中心としたものであったため、死を恐れることは武士である兵士にふさわしくないと教育が徹底されたことが原因である。本来、どうしようもなくなって、やむを得ず死を持って解決を図るのが武士道の生き方であったはずなのに、寧ろ、進んで死を求めることによって、解決が図れるかも知れないと、死に希望を見出す発想が誕生し定着していった。

・ 戦場で次々に同僚が死んでいくと、兵士には、自分の死は、本当に価値あるものだろうかという疑問が、あるいは不安が湧き出てくる。この兵士の疑問に対する解答が、今自分がやらなければ、一体誰がやるのだ、自分の死は崇高なもので、兵士として戦いで死ぬことは本望であり、自分がずっと欲してきた行為なのだというものであった。そして国家がそれを認めてくれ、もしもの時は靖国神社に祀ってくれる、男としてこれ以上望むことはあろうか、という精神的裏付けのもとに、敵に向かっていったのである。
⇒この兵士の死生観は、「自分の死を残された人々が、どう考えてくれるかが明確になればなるほど、人は安心して死んで行ける。人の死は、生き残った人々にどのように受け入れられるかが重要で、死んだことが栄誉であるような死が望ましいと根本から信じてきた。」という死生観から導かれると思える。特に、兵士の死が国家にとって貴重な財産であるという教育が、高い士気と忠誠を生み出し、死に臨んだ場合の兵士に、さらに一歩前進させる力となった。

・ 自分の死が国家のために役立つと信じたとき、兵士は死を超越して敵に向かうことができる。『平家物語』に言う「いきての恥、しんでの恥」をどう忍ぶか、自分の死が名誉の死であると信じるにはどうすればよいのかという命題が、兵士の生き方の中心であった。
 例えば、特攻で死ぬことに兵士は躊躇いがなかった。それより、自分が特攻に出撃できずに、出遅れることの方が遙かに無念と感じていた。特攻を命じられた兵士の多くは、この作戦の効果を考えるよりも、自分の死に場所を華々しく与えてくれたことに感謝した。
⇒同上の古来からの死生観に基づくが、さらに、死ぬことを恐れない、より美しく、清く死ぬという死生観が組み合わさっていると考えられる。









空母「イントレピッド」に対空砲火を受けながらも突入する「銀河」20年3月から特攻に使用された銀河は合計156機が出撃した。

・ 兵士は、例えここで散華しても、生まれかわって国のために再度奉公したいと思っていた。それは、丁度楠公が七度生きて朝敵を亡ぼさんと湊川に負けることを意識しつつ出陣して行ったことに類似する。ここで自分が死ぬことによって後世の人が感奮興起して、結局また再び日本を護持するという精神に通ずるものがある。せっぱつまって、客観的情勢は全く絶望的でもどうにも動かしようがないというとき、主観の世界で自分を救い出す、絶望を希望におきかえる信念を持っていた。
⇒この死生観は、「どこかで別の人間として生まれ変わり、また人生を送るかも知れないが、もとの人間の意志は継続されて伝えられる。何度生まれ変わっても思いを遂げることはできる。」というに基づく魂の連続性によっている。また、ここで命を失っても、それで全てが終わりではないという考え方が理解されていたための死生観である。

・ 戦場で死んだ場合、兵士は、弔いの儀礼受けることは不可能に近かった。そのため、兵士は、戦場では死にきれないという感情を抱いた。この感情に対して、我が国は、国家として兵士を弔う方式を採用した。それは兵士がどこで命を落とそうと、それが国のためなら、霊魂は国家の定める聖地に集まり、そこで英霊として供養され、さらに国家の安寧を見守り続けるという考え方である。遺族のみならず、自分が守ろうとした国民全員が祀ってくれる。
⇒この死生観が生まれたのは、古来の死生観に「死者の肉体から魂が抜けて、あの世に行くには弔いの儀礼が必要である。それには死者の肉体と、弔いを行う子孫がいなければならない。遺体に対する葬送儀礼が終了しなければ、死者の霊は成仏できずにこの世で彷徨い続ける。」という考え方があり、これが潜在的に兵士の意識を不安にさせた。
 元々、人類には一族の為に戦闘などで勇敢に死んだ勇者を手厚く葬る習慣を持つ集団がある。これらから日本は、兵士が安心して戦場に向かうことのできる精神的補償を行った。この補償、即ち、靖国神社の創設が日本国民全体に広く啓蒙され、兵士の安心感は盤石となった。

・ 兵士は、国のために死んだら、一家の名誉であり神になれるという精神の補償を求めていた。兵士は靖国神社の存在によって、戦場で死ぬことの恐れを軽減し、寧ろ死ぬことによって家族にも名誉を与えることができ、国のために死ぬことに誇りを持つことができるようになった。太平洋戦争まで、靖国神社の施設そのものも整備され、また英霊として祀られるという思想も徹底され、兵士は戦場における死生観を確立していった。
⇒この死生観も、前項目の靖国神社の存在によって確立したものである。日本古来からの死生観には、表に出てこない、どこで戦死しても、それが兵士として尊い死ならば、国家、国民が軍神として祀ってくれるという絶対の安心感は、兵士にとって極めてありがたい思想であったと思える。その証左に、国家としての形態は戦後変わっても、現在なお訪れて、兵士を弔う国民が後を絶たない。

 明治以降の急激な変化の時代に、死という概念を片時も忘れることができずに、絶えず頭のどこかに生死を考えていた兵士にとって、その持ち得た死生観とは、それまで日本人が古来から引き継いできた死生観と異なったものであろうか。もし、兵士の死生観になんらかの差異を見出すのならば、日本人の死生観は一定したものでなく、その取り巻く環境の変化によって、変わりうることが推測できる。
 日本人の死生観がその取り巻く環境によって、少しずつでも変化するのならば、今後の時代に、教育や倫理観や歴史の理解の仕方などで、死生観を変化させることも可能になる。死生観は、いかに死すかを対象とした考え方であり、それはすなわちいかに死すまで生きるか、人の生き方の哲学でもある。つまり、生き方に影響を与えるなんらかの要因、生き方の善悪を判断する要因、信じるもの等によって、いかに生きるか、いかに死すかの判定が異なってくる可能性があるということだ。
 連載を通して、国内の藩から国際社会の中の国家の軍を担う責務を持つことになった兵士の死生観、国際的に認められようとしていた頃から兵士の命を軽視するようになった時代への変化に揺れた捕虜の死生観、太平洋戦争まで存在しなかった特攻作戦に参加した兵士の死生観、正しい行為と信じ戦闘を行った兵士に与えられた戦犯という立場の死生観等、これまでの日本人の持っていた死生観とは、また別のものを太平洋戦争における兵士は持たざるをえなかったのではないだろうか。 

 特に靖国神社の存在によって、戦場で死ぬことに対する不安と恐怖が拭い去られ、遺族に対しても軍神としての名誉が与えられるという考え方は、戦闘場面で、何が何でも生き残るというより、任務を完遂すべく最大の努力を発揮する、しかしそれでも叶わぬ時は、自分の命に代えて国を守るという強い戦意を生むことになった。これは死ぬことを避けるという人間の本来の意識を超越しており、自分の命が失われることの絶望より、死後の栄光を信じる生き方となっている。
 確かに全く異なる死生観ではなく、今までの死生観から導かれる考えの延長にあるという見方もできるかも知れない。しかし古来から日本人の持つ死生観の大きな範疇の中で考えられる死生観であったとしても、その範囲の中で極端な存在を示した死生観が見出されたと考えられるのである。もし、日本人の死生観に揺れ幅のような意識の許容範囲があったとしたならば、少なくとも太平洋戦争における兵士の死生観は揺れ幅一杯まで揺れ動いたと考えられるのではないだろうか。

 この連載では、日本人の死に対する考え方を形成するためのいくつかの要因が短い時間で、社会の考え方までに及ぶ大きな変化を生じた場合、死生観にも大小の幅はあるが、影響すると言うことができたと思える。
 何を正しいと信じるか、何を美しいと信じるか等は、その人間が属する社会の文化、伝統、習慣などで決定される。その社会がこれらの判断基準を変化させねばならないとき、例えば国や民族の生存が懸かった場合、人々はある一定の教育を進めることで、被教育者つまり若者の考え方を変えざるを得なかった。太平洋戦争における兵士の死生観にもそれは伺うことができる。
 しかし、この変化は、当時の我が国のみに起こり得た現象ではない。本来死者の遺体を、傷つけたり、失うことを最も忌み嫌うイスラム教徒でさえ、教理で正義とされる場合では、爆弾を身につけてテロ行為を進んで行う。
 人間の死生観は、絶対的なものではなく、長時間掛けられて形成されてきた死生観であっても、それを取り巻く人々の環境の変化によって大きく揺れ動くことがありうる。今後他人、他民族、他国民、他宗教徒を殺すことが正義であると信じ、自らの生命を懸けて行動する若者が発生しないとは言い切れない。次の世代の若者に死生観を与える責務は、現在の社会を形成する人々にある。私も含めて世界中の人々が、若者に対してしっかりとした後ろ姿を見せることができるよう自己研鑽する必要がある。

 以上の成果から、日本人の持つ死生観は伝統的に継続されてきたが、死生観は、その範疇の中で、振り子のようにある幅を持って振れ、必ずしも不変の固定的な一定のものではなく、その時の日本人を取り巻くさまざまな環境が変化する際に、それに同じて揺れ動くものであると感じられた。将来、日本を担う若者達が、死に対する考え方やいかに生きるべきかを判断する際、彼等に日本の文化、倫理観、道徳等を教育する立場にある世代の人々は、責任を持って彼等に姿勢を見せる必要がある。例えば、太平洋戦争後の、日本人の精神的不安定さ、また、テロ行為で自分と考えを異にする人々の無差別虐殺と、自己の生命を失うと解っているにもかかわらず爆弾攻撃をする人々など、死生観をいかに形成するかは、日本人のみならず、人類全てに影響する。正しい死生観とは何か、少なくとも、生命を無駄にすることのない考え方に基づく死生観に近づき、それを、後世の人々に伝える義務が、我々には必需である。

(2) さらに考えるべき点

 連載を通して、さらに触れるべき事項及び明らかにできなかった事項が考えられる。その一つは、ここまでの研究が、兵士が軍という組織の中の一員として行動してきた状況の上に立って行ってきたということ、即ち、太平洋戦争の最後の段階で、それまでの教育や指揮、統率あるいは愛国心、上司に対する信頼等が、敗北や補給の無視による飢餓、圧倒的な連合軍に刃向かうことの無力さが広められていった状況でそれまでの死生観がもろくもあっという間に崩れていった状況においては、兵士の死生観は別の状態であったのではないだろうかということである。
 勿論、このような状況で、彼等を兵士と呼ぶことができるのか否かという問題もある。が、さまざまな資料によって浮かび上がってきたことに全く触れずに兵士の死生観が語れるのだろうかということである。
 例えば、餓島として知られるガダルカナル島での戦闘状況である。

ア ガダルカナル

 日本が国家として生き残るため、軍事に力を注ぎ、当時の国力と与えられた時間から装備の質、量のみでなく、日本国民と兵士の精神的な力に因ろうと様々な努力を積み重ね啓蒙を図ってきたことは様々な文書を通して伺える。しかし、戦局が徐々に不利になり、太平洋戦争の初期に帝国陸海軍が勇ましく邁進した状況は過去のものとなってきた。この時の兵士を取り巻く国民の感情はどうであったのか。はじめに、日本と同様、敵に勝つという任務を与えられた米軍の兵士の任務達成への姿勢、つぎに、劣勢窮まりない燃弾尽きたガダルカナル島の状況、そして銃後の守りであるはずの日本国民の実際の考え方を伺ってみたい。
 現在では、太平洋戦争当時秘匿されていた様々な戦場の様相が語られ、出版されることで多くの日本人に伝えられる機会が増した。例えば、中部太平洋の小島ガダルカナルについても、その島が別名「餓島」と呼ばれていたことも、ここで数多くの日本軍将兵が悲惨な戦闘を行ったことを聞いたことがある日本人もかなりいるのではないだろうか。
 はじめに状況を理解していただくために、当時の地図を記載する。

















   「ガダルカナル島の位置」(ENCARTA地図を加工)

 ここで言いたいのは、作戦計画がどうのこうのとか、東京の司令部が何を考えていたのかと言ったことではない。ガダルカナル島に出兵を命ぜられた兵士のことである。命令も徹せず気の弱い者は死に、強靱な生活力を持った者だけが榕樹のかげで缶詰の空き缶に煮炊きし、野武士めいた生をつないでいるという状況をもたらし、国家は兵士を飢餓と衰弱死の瀬戸際に立たせたまま放置しておいたのである。
 軍における士気の重要性は縷々述べられてきたことであるし、各種教範類を通して軍において教育されてきたはずである。しかし士気の根本にあることは、戦争目的の明瞭さであり、国民の支援であり、指揮官の統帥であるが、それ以前に兵士が人間としての最低の保護がなされなければ、それらは意味をなさないのである。敵を倒そうにも弾薬が無く、ましてや生きていくだけの食料もない状態では戦いようがない。このような状況の戦場の記録が幾つか現在まで残されている。
 弱肉強食の飢餓道にさまよわされている者に、「質素を旨とすべし」「礼節を尊ぶべし」などの『軍人勅諭』の徳目など屁ほどの力ももたない。それは「兵隊は・・・戦って死ぬのは仕方がない。だが、何十日も飢える義務など、国家に対しても、天皇に対しても、ましてや将軍や参謀などに対して、負ってはいないからであるi。」その悲惨な状況は、わずかに生き残った兵士の手記から読み取ることができるが、その内の一つが、第2師団経理部所属の吉田嘉七のもので、「死なないうちに、蠅がたかる。負っても負ってもよってくる。とうとう追いきれなくなる。と、蠅は群をなして、露出されている皮膚にたかる。顔面は一本の皺も見えないまでに、蠅が真っ黒にたかり、皮膚を噛み、肉をむさぼる。
 そのわきを通ると、一時にぷーんと蠅は飛び立つ。飛び立ったあとの、食いあらされた顔の醜さ、恐ろしさ。鼻もなく、口もなく、眼もない。白くむき出された骨と、所々に紫色にくっついている肉塊。それらに固まりついて黒くなった血痕。
 これが忠勇な、天皇陛下の股肱の最後の姿。われわれの戦友の、兄弟の、国家にすべてを捧げきった姿。ぼろぼろの夏襦袢の襟からのぞく髪の毛の生えた腐肉の一かたまりが、あの歓呼に送られ、旗の波に手をふって答えた顔と誰が思えよう。思わず面を背けると、何百という蠅の群は、再び地べたの腐肉にむさぼりついたii。」かなりショッキングな描写であるが、実際に明日は自分自身がこうなるかも知れないという兵士の見たままの現実である。
 兵士は、戦場において敵弾に倒れるかも知れないという覚悟はあったかも知れないが、よもや口にする食糧が途絶え、飢えに死ぬとは思っていなかっただろう。このような悲惨な状況が終戦以前に国内に伝えられていたならば、兵士の出征の仕方は異なったものになったかも知れない。
 ガダルカナルの戦闘は、このような悲惨なものだけではなかった。飢えに苦しむ兵士を救おうと島の近辺で米海軍に対してかなわぬ戦いに臨んだ兵士もいた。それに関して空母隼鷹の角田少将の指揮が残されている。「一言でいう、士気と訓練とが勝利への道である、と。しかし、さらにその上に、戦闘員の全員が打って一丸となりうる軍紀というものが必要であろう。しかもそれは、外から強制されたような、機械的な力でつくられるものではなく、指揮官のにじみでるような人格によって、部下たちのうちに自然に形成されているものなのである。先頭に立つ指揮官の強靱な意志の如何によって、小さな闘魂が驚くほど大きな戦闘力となることがよくわかる。『戦争論』のクラウゼヴィッツが、戦争行為における最高の資質は胆勇である、と説いたその胆勇を、角田少将は見事に示して勝利を勝ち取ったのであるiii。」戦場における日本の兵士の士気はけして低いものではなかった。何が何でも敵を討つという意志がある限り、戦闘は続けられる。しかし、その意志を保つためには最低限の戦える環境、すなわち弾薬であり、食糧であり、医薬品などがなければ、どんなに強く教育を受けてきた兵士であっても、戦うことはできないのである。戦うことができなければ戦意を保つどころか、自分の生命を維持することしかできないのである。いや生命を維持することすら、不可能であったのである。
 「しかし苦しいから死ぬのでは任務はつとまらない。要するに死は問題でなく、どうして任務を達成するかが問題であるiv。」と長嶺がいうように、切羽詰まった状況では、いかに任務を完遂するかのみ問題であって、そのために何人が命を落とそうが、それに自分が含まれていようがなどは問題でなかったのである。任務を放り出して逃避したら、どんなにか楽になるかなどとは考える余地すら残されない教育が兵士に対してなされていたのである。














ガダルカナルでの遺骨収集。焼骨式。(日本に遺骨を持って帰る場合は、検疫の問題から、焼骨しなければならない。)

イ 諸外国の兵士

 もう一点は、日本人の死生観を見るため、太平洋戦争における兵士を中心に行ったが、比較対照として、諸外国兵士の死生観を詳しく考察できなかったことである。例えば、広島に原子爆弾を投下したポール・ティベッツの後日談である。
 1945年8月6日、広島に原子爆弾を落としたB-29の機長、ポール・ティベッツがその時の感想を述べている。
 「なぜ私が選ばれたのか?わからない。『任務だ』と言われ、敬礼し、『わかりました』と答えた。それだけだ。任務を命ぜられたとき、詳細の説明は受けなかった。当時は説明などなかった。命令されれば、黙って従うだけだ。わたしの任務は、核爆弾を投下させる能力を持った部隊を編成、訓練し、あらゆる点で自立したチームを作り上げることだったv。」
 そこには、良いとか悪いとか、自分の感情は必要とされない軍隊の任務に対する姿勢がはっきりと示されているvi。
 さらに、「そんな任務は受けたくないとはっきり上官に言うべきではなかったのかと、時々質問される。そんなとき、やはり彼らは理解していないとつくづく思う。そして、そういう質問をしてくるのは、たいていわたしより若い人間なのだ。第二次世界大戦当時、上官の命令に逆らうことは不可能だった。それが第一の理由だ。
 第二の理由はもっと重要だ。上官の命令を拒否しなかったのは、わたし自身その任務を遂行したいと思ったからなのだvii。」爆弾投下のあの日以来、眠れなかったことは一度もないと彼は言う。戦争が終わって後から、あの時はこうすべきだったとか、ああすべきだったと言う人々は多いが、その場の感情と、後付の理論が同じ訳がなく、特に後者が意味を持つとは思えないのだ。そして「これだけはわかってもらいたい。耳に心地よいことではないが、あえて言おう。戦争には倫理など存在しないのだ。子供を殺す。女を殺す。老人を殺す。わざわざ探しださなくとも、彼らは死ぬ。それが戦争というものだviii。」と言う。実際に銃を撃たなかった連中や、戦争に行かなかった知恵者が、なんと言おうと、戦場においては、撃ち殺される前に、敵を撃ち殺さなければ生き残ることはできない。このようなきれい事を言う兵士は存在しないし、戦場では役に立たないのだ。悔やむのはわたしの仕事でない。わたしの任務は、敵をうち砕くことなのだと今でも信じていた。
 もし歴史の流れが捲き戻ってしまうことがあったらと言う質問に対して、ティベッツは、祖国を守るために再び真っ先に駆けつけると言ったix。


















エノラ・ゲイ(広島に最初の原爆を落としたB-29の愛称)の機長席から手を振るポール・ティベッツ

 確かに、彼の感情は戦闘行動の中では冷静に受け止めることはできる。もし可能ならば、彼の命ぜられた作戦が、原爆投下でなく、特攻であったら彼はどの様に行動しただろうかということである。命令とあらば、実行しただろうか、判断は困難である。現在でも米国では、核兵器に携わる兵士が数多く任命されている。彼等は、その崇高な使命を理解しつつも、倫理、人道的な悩みを有することが多い。軍では、その任務について十分と思われる教育を行っているが、同時に宗教を通した精神的なケアも不可欠となっているx。 

 以上のように、この連載で究明できなかった部分もあるが、読者の方々もどこか心の隅に置いていつか明らかなればと思っている。

 以上、1年有余にわたって紙面をお借りして兵士の死生観について持論を述べさせていただいた。死という避けがたい終末に向かって日々生活していく私も含めた読者の皆様方が残された時間の生きがい、いや「死にがい」を思う時に、本論が一抹のつっかえ棒となれば幸いである。
 長い間お付き合い誠にありがとうございました。心から御礼申し上げます。

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i 半藤一利『遠い島 ガダルカナル』(PHP研究所、2003)224頁。
ii  (同上)346頁。
iii (同上)268頁。
iv 長嶺秀雄『日本軍人の死生観』(原書房、1982)162頁
v  ボブ・グリーン『DUTY-わが父、そして原爆を落とした男の物語』(山本光信訳、光文社、2001)22~23頁。
vi  私は、米空軍大学に留学中、ポール・ティベッツ退役准将の講演を聞く機会に恵まれたことがある。聴講者の中に、日本人である私が含まれていることは、事前に知らされていた。もし、彼が、原爆投下を人類に対する贖罪として語るならば、私は私が同様の立場であったならば、同じようにスイッチを押したろうと弁護するつもりであった。ところが、彼はVサインの両手を挙げて、拍手喝采の中、「私が太平洋戦争を終結させた。」と満面の笑みを浮かべて登壇した。確かに、任務を遂行するだけの死生観であった。
vii  ボブ・グリーン『DUTY-わが父、そして原爆を落とした男の物語』(山本光信訳、光文社、2001)26頁。
viii (同上)27頁。
ix  ポール・ティベッツは広島に原子爆弾を投下した兵士であるが、もう一人、長崎に原爆を投下したB-29(ニック・ネーム:ボックスカー)の機長であったチャールズ・スウィーニーは2004年7月15日に84歳で死去している。彼は、戦後、原爆投下を擁護する発言を大学での講演などで数多く行い、著書「私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した」で原爆こそが戦争を終結させたとする持論を展開した。
xi  Raymond A.Shulstad,PEACE IS MY PROFESSION(Washington,DC:National University Press,1986),Chap.6“IMPLICATIONS AND CHALLENGES”pp.111-122.
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《筆者紹介》
 大場(おおば) 一石(かずいし)
《略  歴》
 文学博士 元空将補
 1952年(昭和27年)東京都出身、都立上野高校から防衛大学校第19期。米空軍大学指揮幕僚課程卒。
 平成7年、空幕渉外班長時、膠原病発病、第一線から退き、研究職へ。大正大学大学院進学。「太平洋戦争における兵士の死生観についての研究」で文学博士号取得。
 平成26年2月、災害派遣時の隊員たちの心情をインタビューした『証言-自衛隊員たちの東日本大震災』(並木書房)出版。


              


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