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死生観ノート


                           2015.6.9


 「あなたの“死にがい”は何ですか?-死生観ノート」(35)


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35 まとめ(1)

(1) 日本古来の死生観と兵士の死生観

 この連載を通して、太平洋戦争における兵士の死生観がどのような過程で形成されていったか、そしてそれはどのようなものであったのか見てきた。明治維新以降、新しく、国民の“身分”として、兵士が作られた。新しく作られた身分であるから、その生き方、立場、あるいは考え方は、また新しく作られねばならなかった。
 こうして作られた兵士の死生観が、日本人の古来から受けついできた死生観とは別のものなのか、あるいは、表面的には異なった表現で現されているが実際は本質の同一な古来からの死生観なのかを考えたのが、本連載の真の目的であった。もし、武士道の特異な面のみを強調した教育や、今まで無かった死を前提とする特攻作戦の実施や、あるいは、太平洋戦争に向かって大きく変化していった捕虜に対する考え方などが、日本人全体の意識として認知されたことによって、それが新しい別個の形で兵士そのものの死生観を形成したとするならば、その影響は極めて大きいのである。
 すなわち、社会が急変し、価値観が、勿論人間の生命という価値観すら含めて変化した場合、日本人の死生観は変化しうるということになる。そうならば、もし、将来、若人がある事象のために、生きて恥を忍ぶより、自ら死を選ぶことが是とされるような日本の文化が形成された場合、彼らは進んで死を選ぶことが正しい道、あるいは美しい死に方であるとし、社会もそれを認めることになるかも知れない。そのような事態が起こりうるのだろうか、それは極めて危険な状態といえる。

ア 日本古来の死生観

 日本人は、死んだらあの世に行くと信じていた。そして、残った者の中に、その個人の記憶があるかぎり、影響力を及ぼすことができると考えていた。誰も故人を記憶しない世代になると、死者の霊魂は、自然と宇宙と一緒になって次第に溶けて消えてゆくのである。そのため、死者は、どのような記憶を現世の人々に遺してゆくかが極めて重要な要素となった。
 死は、単に個人だけの出来事でなく、遺族や遺された人々の社会に影響を与えるものである。それらに迷惑をかけない、望まれる形での死に方がいかにできるか、日本人は英知を絞った。日本人の死との向き合い方で、人はいつか死を迎える、それは防ぎようがない、しかし、こんなに急に起こるとは思っていなかったと、死に対する諦めをもっていた。
 日本人の中に、「いつか」ではなくいつも死について考えていた集団がいた。その端的な例が、武士である。彼らの存在は、本来武力を持って侵略から領土、領民を守ることであったが、時代が進むにつれ、戦闘の場面は少なくなり、その意義は、役職に就いて、いざというとき自ら死を迎え、その死によって一件落着という解決を図り、藩主に累の及ぶことを防いだのである。そのため、現世に対する心残りがあろうとも、どうあれ死ぬべき時に、潔く死ぬためにのみ生きてきたのである。
 即ち、ある役職に就いた武士が、責任をとって割腹して果てたら、それで総ての悶着は決したと共通の認識ができあがっていたのである。この武士の死については、「責任者が死という責任をとったのだから、あるいは死んでお詫びをしたのだからこれ以上追求しなくても過去のことは水に流して」という日本人全体の死生観が強く影響していると考えられる。
 武士に対する死することへの期待、また武士の家族の世間体、碌を受ける意義、君主に対する責任感などから、武士は今述べたように、いざというとき、周りが望むとおりの死を実行しなければならなかった。それができないと、一家の恥であり、世間に顔向けできず、当然あの世にもまともに行けないということになるため、武士は、死すべき時に躊躇なく死ねる覚悟を身に付けていなければならなかったし、そのための修業を日夜続けていた。『葉隠』に言う「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」とはこういう意味である。
 死に方を学ぶために生きる、死ぬことを本分として生きる、死ぬときのその一瞬の刹那のために一生を送るということは、取りも直さず、死ぬためにどう現世を生きるかであり、死に方即ち、生き方でもあった。武士の生き方を纏めた武士道は、いかに死ぬかということが、いかに生きるかという意味であると教える道である。

 以上を要約すると、日本人の死生観は
 ① 肉体的生命の存続を希求するもの(不老長寿への願い、医術・医療)
 ② 死後における生命の永続を信ずるもの(来世への願いと信仰、浄土・死者・祖先)
 ③ 自己の生命を、それに代わる限りなき生命に託するもの(生命連続への願い、子孫・事業・芸術)
 ④ 現実の生活の中に永遠の生命を感得するもの(今きり・これきりの生命感、生かされている実感)
というように分類される。しかし、現実の生活では必ずしも独立して存在するのではなく、それぞれが重なり合い、結び合っていると考えられる。今までの分析からこの分類に沿った日本古来の死生観を考察すると以下のようになる。

① 永遠の生命維持が、金銭や肉体の鍛錬などでは得られない。肉体の死は受け入れざるを得ないが、魂が別の世界で永続することは可能である。肉体は滅びても魂は、どこかで生き続ける。 肉体の死と同時に霊魂があの世に旅立つ、その行き着く先は、生前の行いによって定められ、あの世から現世の生者に、何らかの形で影響力を持つ。

② 魂は、死後、現世とは別の世界に行き、この世を去っても来世がある。
 死者の肉体から魂が抜けて、あの世に行くには弔いの儀礼が必要である。それには死者の肉体と、弔いを行う子孫がいなければならない。遺体に対する葬送儀礼が終了しなければ、死者の霊は成仏できずにこの世で彷徨い続ける。
 霊魂が生者に影響を及ぼすのは、残った者達が死者の記憶を何らかの形でもっている場合で、現世の何人も死者の記憶を失った後は、霊魂は、「宇宙」の中へ入って行き、次第に融けながら消えてゆく。このため、日本人は死に臨んで、残された人々に、より美しく、より清く記憶にとどめて貰えるよう死に方を整える。少なくとも、後ろ指を指されたり、属する社会に迷惑を掛けるような死に方は許されない。
 人の死は、個人の問題ではなく、周囲の社会全般に影響する出来事であり、死にあたっては、家族に迷惑のかからぬよう社会に迷惑のかからぬような死に方が望まれる。

③ 死んだ後、魂は残された子孫の近くで、彼等の生活を見守る。子孫達が、手厚く死者を祀ってくれれば、霊魂もそれに応えて子孫の災いを防ごうとする。
 魂は、子孫の記憶の中に生きており、その記憶にどう死者が映っているかで、魂の祀られ方が異なってくる。特に、死ぬときの姿の記憶が、最も鮮明なものである。死者との直接の記憶を持った人々がいなくなっても、死者の名が様々な形で伝えられることがある。伝聞であり、残した文書、作品を通じて死者は、生者の中に生き続ける。
 死者の現世に遺したものが、立派であれば立派な人間として、醜ければ、そのような人間として生者の中に記憶される。
 どこかで別の人間として生まれかわり、また人生を送るかも知れないが、もとの人間の意志は継続されて伝えられる。何度生まれ変わっても思いを遂げることはできる。

④ 死が近づいた日本人は、自分の一生を回顧し、自分が今死んでも、自分を知る者の中に、自分に対する記憶が生き続けるだろうかという不安と疑問を持つ。自分の死を残された人々が、どう考えてくれるかが明確になればなるほど、人は安心して死んで行ける。
 特定の個人の死は、生き残った人々にどのように受け入れられるかが重要で、それを小さい頃から見聞きしてきた日本人には、遺族に迷惑をかけずに死ぬ、あるいは死んだことが栄誉であるような死が望ましいと根本から信じてきた。
 真理、幸福、人生など現世で追究し、真に努力を続ければ、もうそこには生とか死を区別する必要はなくなる。
というように集約されるのではないだろうか。


















          明治時代の葬儀

イ 兵士の死生観

 今まで見てきたように日本人の若者が、兵士としての道を選択した場合、あるいは自己の意志によらず兵士となった場合、通常の人生とは異なって、敵と戦って国を守ることが求められる。それは、戦場における死の可能性を含むことになる。戦闘の場面では、兵士は常に死と隣り合わせ、死を意識せねばならない。
 兵士は、武士ではない。生まれた時から武士という身分の人々と違い、招集された部隊につくまでは、百姓のせがれであり、商人の息子であり、軍隊の教育も受けたこともなかったし、初期には、標準語もなく、時計もなく、識字率は低く、洋装や革靴に縁のない若者も大勢いた。こういった若者たちを、日本国の兵士として、生命を捧げさせるためには、国を挙げての教育が必要であった。
 兵士はその存在自体、そのような状態で活躍することを前提とし、国民もそれを期待し、生命や財産を提供している。そのため国民は、兵士が精一杯努力して、国や国民を守ってくれることを期待している。戦って負ければ意気消沈するし、その戦い方も、逃げたり、まだ戦えるのに諦めることを容易に認めはしない。少なくとも全力で戦って潔い形の終了を望む。そのためには、殉死することもやむをえないと考えている。
 日本人は、この潔さを重視し、どのような手段を使っても相手を倒すというような卑劣な態度を望まなかった。それは取りも直さず、敗北すなわち自決という極端な姿を兵士に求めてきたのである。現代でも、スポーツの国際試合などで勝利を期待すればするほど不甲斐ない戦いをすると自暴自棄の感情を強く感じる。この国民の期待は、古来からの感情であろうか。
 勿論明治以降、兵士の戦う相手は、日本国以外の外国ではあったが太平洋戦争期には武士道の中の死の選択を強調した教育が、兵士の死を正当な面として認める風潮を作り上げた。それは「花は桜木、人は武士」であり、「死は鴻毛より軽し」であり、「靖国神社でまた会おう」であった。国民にとって兵士の殉職は、名誉の戦死であり、兵士は七度生まれかわって国に尽くす靖国の神になることであった。このことを良いとか悪いとか言うのではない。当時の日本人の多くがこの道が正しく、美しいものだと判断し、若い兵士もそれを信じて敵に向かって行ったのである。

 兵士が死を覚悟して、前線に向かうとき絶対に必要な3つの要件は、第一に、国民の支持があること。即ち、自分たちの戦闘行動が、国のため、国民のためと認められる大儀があること。第二が、自分がもし戦争で戦死したり、外傷を追った場合、国家が残された遺族に充分な補償を行ってくれること。そして第三が、兵士が戦場で散った時、それを国家が名誉として扱ってくれることの3要件であった。
 第一の戦争の大義名分は、国家がその存続を懸けて教育を行い、国民の熟知するところとなった。これを否定することは困難で、かつ無謀であり、また、そのような思想を持つことさえ稀であった。
 第二の要件については、国家としての補償は必ずしも十分とはいえなかった。金銭の変わりに国家が与えたのは、遺族に対する名誉だった。そしてこのことは、第三の兵士の死後の扱いにも通じた。国家が、散華した兵士とその家族に与えたものは、現人神天皇陛下でさえ拝礼する靖国神社での軍神としての英霊の祀り方であった。  
 今までの、兵士の死生観形成に影響を与えた事象から確立された、太平洋戦争における兵士の死生観を要約すると、以下のように考えられる。

・ 兵士は、死にあたって、残された人々に、正しい死に方をしたと記憶されなければならなかった。国民全員が自分を誇りに思い、活躍を見ていると信じていた。日本人が兵士に託したのは、武力をもって外敵から我が国と国民を守ることであり、そのために戦力的に不利な我が国の兵士は、最後の最後まで任務を放棄せず、最後の一兵であっても、より多くの敵を倒すための不屈の精神力を望まれた。そしてその精神力を養うため、各種の訓練と教育がなされ、また国民の間にも、兵士を讃え誇りに思う感情が芽生えていった。

・ 兵士は、死に対する恐怖を持ってはならないと自分を律していた。死を恐れるのは兵士らしくないとされた。出撃する兵士は、武士道における避け得ない死の部分を強調された教育を徹底して受けてきた。いざという時は死ぬ方を選べ、死ぬべき時に生きようとするのは潔くない、死に際して躊躇する様な見苦しい行いはするな、清い死を求めよ、そして散華したら再び靖国で合おう、これが合い言葉であった。




















英霊として祀られた肉親のために靖国神社参拝をする戦争遺族(昭和30年)

・ 戦場で次々に同僚が死んでいくと、兵士には、自分の死は、本当に価値あるものだろうかという疑問が、あるいは不安が湧き出てくる。この兵士の疑問に対する解答が、今自分がやらなければ、一体誰がやるのだ、自分の死は崇高なもので、兵士として戦いで死ぬことは本望であり、自分がずっと欲してきた行為なのだというものであった。そして国家がそれを認めてくれ、もしもの時は靖国神社に祀ってくれる、男としてこれ以上望むことはあろうか、という精神的裏付けのもとに、敵に向かっていったのである。

・ 自分の死が国家のために役立つと信じたとき、兵士は死を超越して敵に向かうことができる。『平家物語』に言う「いきての恥、しんでの恥」をどう忍ぶか、自分の死が名誉の死であると信じるにはどうすればよいのかという命題が、兵士の生き方の中心であった。
 例えば、特攻で死ぬことに兵士は躊躇いがなかった。それより、自分が特攻に出撃できずに、出遅れることの方が遙かに無念と感じていた。特攻を命じられた兵士の多くは、この作戦の効果を考えるよりも、自分の死に場所を華々しく与えてくれたことに感謝した。











中川裕陸軍少尉(広島県大竹市出身)は、三重県白山町の上空で敵B29に「飛燕」で体当りを敢行、散華された。
他のB29が撮影した中川機 体当りの瞬間

・ 兵士は、例えここで散華しても、生まれかわって国のために再度奉公したいと思っていた。それは、丁度楠公が七度生きて朝敵を亡ぼさんと湊川に負けることを意識しつつ出陣して行ったことに類似する。ここで自分が死ぬことによって後世の人が感奮興起して、結局また再び日本を護持するという精神に通ずるものがある。切羽詰まって、客観的情勢は全く絶望的でもどうにも動かしようがないというとき、主観の世界で自分を救い出す、絶望を希望におきかえる信念を持っていた。

    

遺書

陸軍軍曹 本多 正命
昭和十九年二月二十四日
マーシャル諸島ブラウン島にて戦死
東京都新宿区牛込改代町出身 
二十四歳

妹へ

呉々も身体に注意して俺の分まで母さんに孝養を尽してくれ。
古来の日本婦人の如く、又、母さんの様に我を強く内に蔵して
しとやかな日本婦人になる様修養してくれ。
よき母こそ日本を実に興隆させる原動力になる事を自覚して。
言ふなかれ一髪のみと我が魂は

  七度生まれ祖國守らば

                                  正

澄子殿

 

        靖国神社 『英霊の言乃葉』の中の一文

・ 戦場で死んだ場合、兵士は、弔いの儀礼受けることは不可能に近かった。そのため、兵士は、戦場では死にきれないという感情を抱いた。この感情に対して、我が国は、国家として兵士を弔う方式を採用した。それは兵士がどこで命を落とそうと、それが国のためなら、霊魂は国家の定める聖地に集まり、そこで英霊として供養され、さらに国家の安寧を見守り続けるという考え方である。兵士は、遺族のみならず、自分が守ろうとした国民全員が祀ってくれるという精神的支柱を与えられた。

・ 兵士は、国のために死んだら、一家の名誉であり神になれるという精神の補償を求めていた。兵士は靖国神社の存在によって、戦場で死ぬことの恐れを軽減し、寧ろ死ぬことによって家族にも名誉を与えることができ、国のために死ぬことに誇りを持つことができるようになった。太平洋戦争まで、靖国神社の施設そのものも整備され、また英霊として祀られるという思想も徹底され、兵士は戦場における死生観を確立していった

 













        桜の名所となった現在の靖国神社

以下、次号最終回に続く。

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《筆者紹介》
 大場(おおば) 一石(かずいし)
《略  歴》
 文学博士 元空将補
 1952年(昭和27年)東京都出身、都立上野高校から防衛大学校第19期。米空軍大学指揮幕僚課程卒。
 平成7年、空幕渉外班長時、膠原病発病、第一線から退き、研究職へ。大正大学大学院進学。「太平洋戦争における兵士の死生観についての研究」で文学博士号取得。
 平成26年2月、災害派遣時の隊員たちの心情をインタビューした『証言-自衛隊員たちの東日本大震災』(並木書房)出版。


              


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