本文へスキップ

つばさ会は航空自衛隊の諸行事・諸活動への協力・支援等を行う空自OB組織です。

電話/FAX: 03-6379-8838

〒162-0842 東京都新宿区市谷佐土原町1-2-34 KSKビル3F つばさ会本部

死生観ノート


                           2015.5.3


 「あなたの“死にがい”は何ですか?-死生観ノート」(32)


☆-------------------------------------------------------------------☆

32 捕虜(1)

  特攻とともに、我が国の軍に特異な思想が作られた。陸軍創立時代にはなかった考え方で「生きて虜囚の辱めを受けず-という『戦陣訓』の思想」である。この考え方の浸透により、他国とは異なった作戦が遂行され、多くの兵士の運命が左右された。  この思想がどのようにして形成されたか、そして、その結果、何が起こったのか次回にわたり考えてみたい。最初に、捕虜について国際法の立場から見ていく。

(1) 捕虜の立場

ア 捕虜と国際法

 太平洋戦争における捕虜については、日本側と連合軍側では、その立場が大きく異なっていると考えられ、その影響が兵士の死生観にも表れた。
 まず、捕虜の国際法的立場から考察する。捕虜とは、一般に、戦争において敵の権力内に落ちた者の総称であり、国際法上その資格要件と待遇が定められている。もっとも、交戦国による捕虜の取扱いは時代と共に大きく変遷してきた。

 歴史的変遷について極簡単に概要を述べると、近代以前の戦争においては、捕虜は殺害されるか、あるいは奴隷となり、17世紀になると捕虜交換や身代金制度の対象となった。18世紀にはフランス革命を契機に、捕虜に一定の人道的待遇を与えることが求められた。この要求は近代国家における国民軍制度の採用によって強まったが、19世紀後半以来不正規兵の戦闘参加の増大につれ、交戦者資格ないし捕虜資格の要件を満たした者のみに捕虜待遇が与えられることになった。即ち、戦闘員と非戦闘員の区分を明確にし、戦闘員のみ捕虜としての資格を有することとしたのである。1907年のハーグ陸戦規則は、正規軍構成員のほか、公然武器携行等一定の条件を満たす民兵や義勇兵団、さらに群民兵にも捕虜の取扱いを受ける権利を与えた。このように捕虜としての身分はかなり厳重に守られることになっている。捕虜に対する原則は、一般的保護の基礎にあるものとして、捕虜は敵国の権力内にあり、これを捕らえた個人または部隊の権力内にあるものではなく、従って抑留国が捕虜に与える待遇について責任を負う。捕虜の保護内容としては、人道的待遇、健康に重大な危険を及ぼす行為の禁止、暴行、脅迫ならびに侮辱や公衆の好奇心からの保護等があげられる。捕虜の労働についても、労働時間、休息、労働条件、労働賃金の支払等がこまかく規定され、抑留国は捕虜に関し、その本国に通知し、その家族および中立国に設置される中央捕虜情報局への通知票送付を認めなければならない。敵対行為終了後、捕虜は遅滞なく解放しかつ送還しなければならないなどがある。しかし、このように捕虜に対して人権上の保護が規定される以前は、戦争で勝利した側の戦利品でしかなかった。

 我が国の場合、古くから戦闘において生け捕りされることを潔しとしない風潮があった。生け捕りとは、戦場において敵の将兵を生かしたままでとらえ捕虜にすることで、生虜あるいは生獲ともいった。「捕虜は事後殺される場合が多いが、その処遇の仕方は生捕りされた者の地位や事情で異なる。」この考え方が、後で詳しく述べるが、後日の日本軍の捕虜に対する考え方に現れてくる。

イ 赤十字

 捕虜と国際法の関係について述べるためには、赤十字の活動に触れる必要がある。戦争における捕虜等の人権について初めてメスを入れたのは赤十字の活動であった。赤十字は、当初、戦時における戦傷病者などの救護活動を目的として設立された機構で、その後、捕虜、文民の保護や、平時における傷病者の救護なども行なっている。
 ジュネーブ条約に基づく赤十字の活動は、なかなか我が国には普及せず、敵軍の将兵を味方と全く同一に扱うという考えは理解されにくかった。














1883年赤十字勲章を受賞した近代看護教育の母 フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale)

(2) 我が国の捕虜に対する考え方

 こうした諸外国の捕虜の考え方と我が国における捕虜の考え方は、異なったものがある。その原因をここで探ってみる。日本人と西欧人の捕虜感の違いを、それぞれの戦争観、平和観の対照的な差異に求め、「実際の戦争では生き残るものも死ぬものもある。戦場にでるにあたって、自分は生きて帰れないと思いこむ人間が多数いるのが日本である。反対に他人はともかく、自分だけは生き残る部類に属すると思いこむ人間の多数なのが欧米諸国である。日本人は殺される側に、欧米人は殺す側に身をおいていることになる。
 したがって死ぬことをおそれて捕虜になる欧米流のやり方は、一見だらしないようでいて、戦力保存のうえからはかえって効果的である。それに、虐殺されるかどうかわからない状態のなかで、さいごの瞬間まで捕虜になって生き残ろうとし、捕虜になってからも、戦意を失わずに脱走をくり返すとなると、日本人にはとてもついていけないすさまじいまでの生命への執着である i。」と鯖田は分析しているが、日本人は、自分達がこう考えるのだから、欧米人もそのように考えて当然だと思いがちだが、相手に通用しない戦争観や平和観を振り翳してみても始まらない。

 例えば、ベトナム戦争において北ベトナム側の捕虜になり、通称「ハノイ・ヒルトン」と呼ばれる収容所に捉えられた米国兵士の記録によれば、彼等は、事前に捕虜になった場合の様々な生き残り方を教育され、訓練も行ったが、実際は何の役にも立たなかったと言う。生き残ることができたのは、必ず救助されるという信念と、その信念を支える人間性、哲学などによる精神的強さであった。彼等の絶対に生き残るという信念と、死んだ方が良かったと信ずる日本兵の違いが明確にでている。



 ヴェトナム戦争時、1967年に捕虜となり、後に米国大統領候補になった政治家ジョン・シドニー・マケイン3世 John Sidney McCain III (右は、北ベトナムの捕虜生活から解放後の1974年に撮影されたもの、髪は真っ白になり左腕はライフルの台尻で肩を砕かれたため自由に動かせなくなっていた。激しい拷問を受け、障害を負う状況下にあっても必ず祖国に救出される、絶対に生き残るという強い信念で生き延びた。)

ア 太平洋戦争までの我が国の捕虜に対する態度

 かつて近代国家の構築を担った明治の指導者たちは、欧米先進国のあらゆる体制を移入することに熱意を傾けたが、特に国際法は直訳に近い形で導入し、厳格に励行することによって文明国としての評価を確立したいと願った。そのため軍も政府も国際法の遵守には大いに気を配った。特に、捕虜の取扱いには意を用い、国際的に高い評価を得ることができた。
 これは、日本は国際社会においてその秩序や信義を守る国であることを示して、米英両国をはじめとする欧米諸国の好感と支持、外債の販売促進という当面の戦争遂行上の利益を得、かつまた、有利な講和のための仲介にあたってもらおうとしたからであり、国際間の信頼関係を醸成するための努力であった。

 例えば「日露戦争でも日本は世界に自慢できるほど捕虜を大事にした。ロシア兵が『松山、松山』と叫びながら手を上げて降参してくる ii。」という状況であった。日露戦争(明治37年2月8日~38年9月5日)において、両軍、とりわけロシア軍には多くの捕虜が派生した。総数は79,367人。これは日本軍の将兵で捕虜になった数の約40倍に相当する。このうち、投降時に宣誓解放されたり、傷病によって死亡した者を除き、72,408人が日本国内29の市や町に設置された俘虜収容所で厚遇を受け、講和締結後、すみやかに帰国した。
 「日露戦争で我が国が獲得したロシア人捕虜は将官24人、将校2,222人、下士官77,120人、計79,367人に及ぶ iii。」と、記録されたが、第2次世界大戦でも国内外の収容捕虜数は、約13万人であったから戦争の規模、期間、動員数に勘案してこの約8万人のロシア人捕虜の数は実に大きなものであった。日本はロシア人捕虜をこの松山も含め29か所に収容した。
 日露戦争を描いた往年のベスト・セラー『肉弾』の著者桜井忠温(松山出身)は、『哀しきものの記録』で、松山がいかにロシア兵に知れ渡っていたか、次のように書いている。
 「『松山!』『松山!』と手をあげて飛び込んで来る。『松山』というのは『降参』ということなのである。それほど『松山』がいつのまにか露兵の間に有名になった。」いささか誇張している感じもするが、他の書にも類似の記述があるところを見ると、「降参」の意味か、「松山に連れて行ってほしい」の意味かはともかく、降伏者が、この言葉を知っていたことだけは確かであろう。

 この外国人捕虜に対する厚遇は、我が国が国際法を遵守し、国際的に認められようとする一つの現れであったが、同時に、あらゆる条約は相互主義が暗黙の前提であり、お互いに捕虜が生じると、相手の捕虜を大事にすれば相手側もこちらの捕虜を大事にしてくれるだろうという考えであった。日本の場合、日露戦争の頃までは、たとえ相手が条約の精神を守らなくても日本は守るという考え方を通した。
 日露戦争以外でも、第1次世界大戦においては、例えば、青島で投降した4千数百名のドイツ人将兵、オーストリアやハンガリーの将兵たちは日本に後送され、第1次世界大戦の終結までの4年近くを、各地の捕虜収容所で暮らすことになったが、そこは捕虜になったドイツ人たちに、模範収容所、として絶賛されるほどに、人道的配慮に満ちた、快適な場所であった。
 特に、彼等のうちの約千人を収容した徳島県の板東捕虜収容所では、ドイツ人捕虜達に大幅な自治権が与えられ、収容所は彼等自身の手によってドイツ風に作り替えられ、新聞さえ発行されていた。ようやく一流国の仲間入りを果たしたと自負する日本が、いかに国際法を遵守しようと気をつかったかが伺える。













 似島独逸人俘虜収容所の『酒保』の様子

 日本側の日本人捕虜についても「日露戦争でロシアに捕らわれた日本人たちへの処遇も概ね日本側に匹敵する厚遇であった。・・・捕虜になったことをいたずらに『恥辱である』として意気消沈ばかりしていたわけではなかった。この点もまた過ぐる大戦時に米国やオーストラリアなどに収容された日本人捕虜とは雲泥の差である iv。」とされており、当時の捕虜に対する考え方が伺える。もちろん捕虜になった事についての諮問は行われたが、日露戦争中は、軍当局は「捕虜になったことより、いかにしてなったか、尽くすべきを尽くしたか」に重点を置いて審問し、かなり幅広い賞罰を課したのであり、捕虜イコール罪悪といった直線的な考え方ではなかった。
 国民世論も例えば、「浮田和民(早大教授)は『義務を果たした後に俘虜となることは決して不名誉ではなく、もし俘虜となるならば、留学したつもりで相手国を研究するこそが人間の道である』と論じ、井上哲次郎、加藤弘之らの学者も支持した。」というように捕虜に対して太平洋戦争時に比較して寛容であった。
 実際に敵軍の捕虜になった後に帰還した日本兵への扱いも、血の通ったものだった。「日露戦争当時のことだが、捕虜になった際の戦闘評価によっては、帰還後に個人感状や、金鵄勲章を授与された例さえあった。」また、帰国後の東郷少佐(日本人捕虜の中で陸大を卒業した2名のうちの1人)については捕虜であったことが特に大きな問題になったとは思えない昇進ぶりであったという事例も残されている。

イ 我が国の日本人捕虜に対する態度

 ところが、外国人の捕虜に対する取扱いといった国際法的建前とは別に、実際の日本人社会では必ずしも捕虜になった日本兵が、通常の兵士と同様に受け入れられたわけではなかった。
 それは、第1次世界大戦で日本はほとんど傍観者的立場に終始したが、欧州戦場では死傷者もさることながら捕虜(約800万)の多いことに軍部は衝撃を受けた。奈良武次軍務局長は、この例を引いて、欧州各国の戦争のやり方が物質力に頼りすぎるせいだと断じ、「精神力で戦わねばならぬ日本軍は絶対に捕虜になることなく、捕虜を恥辱として死ぬまで戦わねばならぬ v。」と論じたことからもわかるように、我が国のような、こうした新興の国家においては、物的戦力が整わない段階で対外戦争に臨む場合があり、兵士の精神力と人命軽視の肉弾戦法に期待せざるを得なくなる。そのため、命を惜しんで、戦える内に敵に降伏したと考えられた捕虜になることを恥じる観念が、日清戦争後、特に第1次世界大戦後の日本軍に生まれ育ったと考えられる。

  そして、このような捕虜に対する見方が変わってゆき、日本兵は捕虜になるべからずというタブーが定着していけば、自分は捕虜になれないのに、他国の捕虜を大事にしろと命じるのは無理が生じる。そして、昭和期に入ると、反対に捕虜を軽蔑し、冷遇するように変わってしまうということになり、特に中国戦線での戦いでは、西欧諸国に適用するのと同じルールを中国に対して適用しなくていいし、そのほうがまた実状に合うという考え方が広まっていった。
 敵の捕虜に対する扱い方も日清、日露の時とは大分異なってきた。一つにはこの日本人の捕虜に対する考え方の変化と、現実の物資の不足は捕虜に厚遇を与えるといった余裕を失わせていた。敵の捕虜に対する処遇は、当然のように自分が捕虜になったとき、どのような扱いを受けるかを予想させ、捕虜になる位なら・・・といった感情を兵士に持たせたのも事実である。
 捕虜になるのは、最期まで戦わなかった兵士である、捕虜になるくらいの残力があるなら、なぜ死ぬまで相手と戦って潔く果てなかったのかといった考え方が定着してくると、捕虜になって、その後帰還した兵士に対する国民の対応もかなり厳しいものに変化していった。これは兵士本人のみによらず、その家族、一族郎党まで被害を及ぼすことになった。つまり法的制裁こそなかったが、人々の倫理観に村八分に似た社会的制裁が発生したのである。実際に、「例外はあったろうが、田舎へ行くほど捕虜に対する偏見が強く、居づらくなって大都市や海外移民へ逃避した者がすくなくなかったと思われる。・・・あえて言えば、当事者の置かれた政治的環境と条件によって、捕虜の運命は決まったように見える。」というように、日本社会において捕虜になった日本兵の立場が辛いものになって行った。
 当然のように、軍の内部からも捕虜に対しては厳しい見方が固定して行き、例えば、山県有朋第1軍司令官が、ある作戦の冒頭の言葉にどうせ捕虜になれば虐殺されるはずだからという論法を使いながら、名を惜しみ恥を知る日本男児の伝統に従って死を遂げよと説いた逸話が残されているように、捕虜になることは、社会的にも軍内部においても、戦死以下の死に方と同様に考えられるようになった。

 太平洋戦争直前のノモンハン事件においても、万一、敵領内に不時着し、捕虜となるしかなくなった際には、ただちに自決すべしと定められていた。関東軍の空中勤務者はノモンハン事件に出兵した時に書いた遺書を、戦隊に預けていた。そして最悪の場合に直ちに自決できる二種類の武器をつねに携帯していた。生きて虜囚の辱めを受けず-という『戦陣訓』の思想は、かくも極端なかたちにまでなっていたのである。この考え方は陸軍創立時代には示されなかったものである。
 例えば、日露戦争当時、捕虜になること自体は「辱め」とは考えられていなかった。つまり、ロシアの捕虜になった日本兵や、日本の捕虜になったロシア兵という生身の存在があったとき、彼等に対する扱いは人間性を失っていなかった。むしろ、戦争らしい戦争がなく、現実には捕虜がいなかったその後の30年間に、捕虜をめぐる思考は逆に現実感を失っていったのである。

 日中の戦争、ノモンハン事件、そして後の太平洋戦争を通じて、捕虜になって帰還した自軍の将兵への待遇は硬直しきった、酷薄なものになり、それと歩調を合わせて他国の捕虜への虐待行為も頻発して行った。
 日本軍が捕虜に関していかに現実感を欠いた考えをもっていたかは、そもそも自軍には、「捕虜」などはいないと考えていたことでもわかる。運悪く捕虜になってしまった軍人は、顔を剥奪されて人間でない存在になったように、太平洋戦争の時点では、既に捕虜に対する考え方は、全く罪悪として固定していたのである。
 我が国独特の捕虜観は、まず、① 個人レベルでの倫理規範として成立し、② 徐々に軍という組織体の規範に広がり、③ 最終的には社会的規範として全成員を拘束するに至ったという3つの段階が、それぞれ複合的に推移し固定していったと考えられる。

-------------------------------------------------------------------
i  鯖田豊之『戦争と人間の風土』(新潮社、1967、昭和42年)36頁。
ii 秦郁彦『現代史の対決』(文藝春秋、2003)41頁。
iii 「明治三十七、八年戦役俘虜取扱顛末」(陸軍省)
iv  吹浦忠正「日露戦争で捕虜となった東郷少佐のその後」(『正論』産経新聞社、平成17年4月号)269~270頁。
v 「偕行社記事」(527号、1918年6月)
-------------------------------------------------------------------

《筆者紹介》
 大場(おおば) 一石(かずいし)
《略  歴》
 文学博士 元空将補
 1952年(昭和27年)東京都出身、都立上野高校から防衛大学校第19期。米空軍大学指揮幕僚課程卒。
 平成7年、空幕渉外班長時、膠原病発病、第一線から退き、研究職へ。大正大学大学院進学。「太平洋戦争における兵士の死生観についての研究」で文学博士号取得。
 平成26年2月、災害派遣時の隊員たちの心情をインタビューした『証言-自衛隊員たちの東日本大震災』(並木書房)出版。


              


つばさ会トップページ
死生観ノートトップ



著者近影