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死生観ノート


                          2015.1.12


 「あなたの“死にがい”は何ですか?-死生観ノート」(24)


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24 武士道を通しての兵士の精神教育(1)

 前節まで、兵士にとって正しい死に向かう姿は、「残された人々に、より美しく、より清く記憶にとどめて貰えるような死に方」であり、「それが、どのような姿なのかは、その時々の日本の社会が判断してきた」と述べた。
 そして我が国が国家として生き残ろうとした時代においては、「兵士は、戦闘で勇敢に、死を恐れず散華すること」が、最も正しいことだと判断される必要があったのである。 そのため国民は、散華した兵士に、名誉と国家による補償と靖国神社において、その御霊を祀るという信頼を与えた。また、兵士もその死に方に「死にがい」を感じるための教育を受けることとなった。その精神教育の柱となったのが「武士道」という考え方であった。

 明治維新後、日本は中央集権化された国民軍の創立を目指し、各種制度等を整えていったが、兵士の精神的な支柱は、どこに求めて良いか模索していた。特に列強に比して、装備に劣る我が国においては個々の兵士の精強性が唯一軍事力の要とならざるを得なかった。そのため兵士の精神教育が重視され、勇猛果敢に敵に立ち向かってゆく兵士を作り上げる教育が実施された。
 選ばれたのは、我が国古来より伝えられる武士道であり、特に『葉隠』の文章が規範として用いられた。今回から、太平洋戦争期を中心に兵士の精神教育の骨幹であった「武士道」が、過去から日本に伝えられてきた本来の「武士道」の考え方と同一のものであったのか、それとも新しく時代に沿って作り直されたものであるのか、また、その教範として重要視された『葉隠』について考えてみたい。

(1) 兵士の規範としての武士道

 古来、日本人、特に武士を志す者には武士道という考え方が伝えられてきた。この武士道の考えかたは太平洋戦争における兵士の死生観形成に強く影響を与えたと考えられる。
 武士道という言葉が、広く人々の口に登るようになったのは、新渡戸稲造からと考えられる。『武士道』は、もともと1899年(明治32)新渡戸稲造(1862~1933)の38歳の時、病気療養中の米国で著作され、翌1900年に出版された。儒教、仏教、神道の3つの思想が混合し江戸時代の封建制度のもとで完成された武士道を日本の精神文化として海外へ向けて紹介するために書かれたものである。『武士道』が海外の人々に広く読まれ日本の文化を知らしめることに大きく貢献したことは、当時の米大統領セオドア・ルーズベルトが大変感銘を受け、大量に買って、友人に勧めたという話から伺える。
 新渡戸は、自己の武士道についての考え方を、アメリカ留学の後、ドイツのボン大学で、ベルギーのラヴェレーという法律学博士との会話の中から誕生したと述べている。それは、話題が宗教問題となったとき、ラヴェレー博士から「日本の学校では宗教教育は何を授けているのか。」と聞かれ、新渡戸が「日本の学校では宗教など教えません。」と答えたところ、「宗教教育を施さないというのか、宗教なしに。宗教的科目なしにどうして善悪の区別を覚えるのか。」と言われた。
 実際、当時の日本には倫理とか修身という課目はなかったのである。しかし、新渡戸は、「自分はものごころのついた時から家庭できびしくしつけをうけて育って来たし、日本人が善悪の区別を知ることにおいては、決して外国人に劣っているものではない。しかし、宗教というものはないし、・・・」ということが、一時も頭を去らず、日本民族が昔から受けついで持っている徳義心は、なにから来ているものだろうか、と考えに考えた末にたどり着いたのがこの『武士道』であったのである。
 しかし、『武士道』は、「国際的緊張がしだいに高まる中で、日本の精神文化を公平に正しく、しかも国内外双方に伝えることができたとはいえない。・・・しかも、1899年といえば、日清戦争の4年後、日露戦争の5年前である。新渡戸の思惑とは違って、『武士道』は国内の軍国主義に国家のための道徳として用いられ、外国では、日本軍の行動を理解するための本として扱われる」ことになった。
 新渡戸が日本人論、日本文化論として紹介した思惑i とは離反して、『武士道』が国家の戦う者の道徳として用いられていったのは、次のような理由があると考えられる。
 それは、明治以後の軍隊は徴兵制による国民皆兵で国家の軍隊であり、律令時代以来途絶えていた国家の軍隊が、明治にいたって復活したものである。しかし、富国強兵というスローガンだけでは軍隊という組織は成立できない。戦闘を肯定する思想、倫理といった思想的核、規範が必要になる。そこで採用されたものが『武士道』であり、軍隊には武士道という精神的支柱が求められたのである。
 明治6年(1873)に徴兵制が施行され、これで国民皆兵になるが、その精神的基盤すなわち戦う道義を教えることは『軍人勅諭』という教範だけでは不可能であり、道徳的哲学的な内容を加えることが、戦争が現実に想定される時期に緊急の課題であった。武士道を潜在的思想として教育し、兵士を武士に昇華させることは、軍事組織を引き締めるためにも、また戦闘士気の高揚のためにも必要不可欠であった。観念的武士道を取り入れることによって、敗れることのない「正義の軍」となり、必勝の戦争に突入することができたのである。
 それが目に見える形で作られていったのは、例えば、「日露戦争における日本の勝利の真の理由は、何にもまして驚くべき日本軍の勇気と行動であり、このような行動へ駆り立てることができる道徳的な力の存在を認めざるをえない」とロンドンタイムズの軍事特派員が記事を書いたことにも伺える。























     新渡戸稲造と妻メアリー・エルキントン

 武士道とは本来、宗教の経典のように教えそのものの原典があるわけではない。日本で長い間、封建社会の中で徐々に築かれてきて、人間の生き方を示したものである。江戸の元禄時代という平和な時期になったところで、山鹿素行が、武士とは何かという点で道筋を示した。それは、武士は生産者ではない、生産者で苦労している人に比べれば、ただの遊民にすぎないから、人の道を鍛えて人間になるべきであり、その一番の根本精神を武士道とするという意味であった。
 この武士道の考え方は、「合戦が育てた理論は何よりも勝利を重んずる。そのためには勇敢さや力強さ、そして集団内部の団結ないし上位者への服従が必要である。そこに『勇』を重視し、極限まで自己を鍛えようとする自己鍛錬の倫理や、仲間を裏切らず、ひいては上位者への忠誠を誓う倫理が形成されてくる」という理論を基盤としており、これを強調すれば、国家の軍隊である日本軍にとって、重要な精神的柱となることは一目瞭然であった。

 この本来の武士道の流れから見ると、「これまでの『武士道』が、大きな変貌をとげてきたとはいえ、その変化の歩みをたどることはできるのに対して、新渡戸の『武士道』は、それまでの歴史からは断絶した、新しい『武士道』である。新渡戸の『武士道』が、かつての『武士道』とまったく異なることは、新渡戸自身が『武士道』の前例を知らず、ほとんど自らの造語と思っていたという点に端的に表れているだろう。」と、新渡戸の広めた武士道の考え方が、古来の武士道を解説する書としては用いられずに、広められた「武士道」という名称のみ利用されたことがわかる。























  Bushido: The Soul of Japan (1900)のカバー

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i 新渡戸が紹介した武士道には、義=Rectitude、勇=Courage、仁=Benevolence、名誉=Honour、礼=Respect、忠義=Loyalty、誠=Honestyが、日本人の精神の根底にあるとされ、正義を求め名誉を重んじ、礼儀正しく、節制と恥の観念を大切にすることと述べられている。 『Hello JAPAN』(「Hello JAPAN」編集委員会、2004)54、55頁から編集。

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《筆者紹介》
 大場(おおば) 一石(かずいし)
《略  歴》
 文学博士 元空将補
 1952年(昭和27年)東京都出身、都立上野高校から防衛大学校第19期。米空軍大学指揮幕僚課程卒。
 平成7年、空幕渉外班長時、膠原病発病、第一線から退き、研究職へ。大正大学大学院進学。「太平洋戦争における兵士の死生観についての研究」で文学博士号取得。
 平成26年2月、災害派遣時の隊員たちの心情をインタビューした『証言-自衛隊員たちの東日本大震災』(並木書房)出版。


               


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