本文へスキップ

つばさ会は航空自衛隊の諸行事・諸活動への協力・支援等を行う空自OB組織です。

電話/FAX: 03-6379-8838

〒162-0842 東京都新宿区市谷佐土原町1-2-34 KSKビル3F つばさ会本部

死生観ノート


                           26.10.12


 「あなたの“死にがい”は何ですか?−死生観ノート」(18)


☆-------------------------------------------------------------------☆

18 国家の中央集権化と兵士(続き)

[前述] (2) 兵役の影響 ア 時刻の秩序

イ 言語の標準化

 前節で触れたが、軍隊における独特の標準化された日本語(兵語:当時、一般の日常で使われる口語と軍における特殊な用語を調和させて作られていった軍隊内の共通の言語)が、軍隊生活の経験者を通じて、一般社会の中に浸透していった。この軍隊生活による言語の習得を梃子にして日本語の標準化が進められる一要因となった。
 日本の各地域の方言は、他の地域の者には十分に理解できないことがあり、共通の誰でも理解できる言語が無ければ、命令が伝達、実行できないという状況が生じる。そのため、各地の方言とは別の、軍隊言葉という軍の中の標準語が体系作られていった。例えば、同じ状況・物品を別の言葉で表現することは混乱と間違いを誘発する。場合によっては、兵士の生命に及ぶことさえありうる。

     
            日本語の方言区分の一例

 どこか一つの地方の言葉で統一することには国の軍として問題が生じ、また、地方間の中間語というのも存在しない。兵語で統一するのに一番簡単なのは、そのものを漢字で表し、訓読みすることであった。編上靴を「あみあげぐつ」と呼べば、大体の日本人にも何のことか解るが「ヘンジョーカ」と発音すると理解できない。しかし、この呼び方が、自分達の戦闘用の靴のことであると一度認識すれば、以後、間違いは起こり難い。物干場「ブッカンバ」、煙管(灰皿のこと)「エンカン」など日常で使われる名詞はもとより、作戦に使われる兵器、行動、文章なども間違いの起こらない、かつ短節な表現が用いられ、一つの命令で全ての兵士が、正確に行動できる体制が整えられていった。軍隊言葉から日本全国に、日本中で意味の通じる言語の大切さが理解されていった。
 日本の場合、まだ方言のレベルの差異でしかなかったが、諸外国においては、多民族を抱える場合や、広域な国土にわたるなど、言語体系そのものが異なっていたり、少数民族が含まれていたり、言語の標準化には多時間を要すると考えられる。現在でも多くの民族を内合する国の軍では、一つの命令を4カ国語で発令しなければならない場合があるという。大げさな表現であろうが、インドでは、村のレベルで独自の言語を有し、ある駐日武官は15分歩くと同じインド人でも言葉の通じない地域になると話していた。このような言語状況から、インド人は、統一の言語として、民族が伝えてきた言葉でなく外国語である英語を選択した。
 中央集権化され、戦闘能力を100%発揮できるように訓練されつつあった日本軍は、各地の方言を避け、全ての兵士が理解できる言語を必要とした。そのため作られた軍隊言葉から標準語の理解が生まれ、急速に統一、標準化された日本語が流通し始めた。

ウ 洋服の普及

 軍隊という組織は、敵と見方を区分するのはもちろん、戦闘行為をするための機能性、任務による特殊性、示威行動のための識別性などのため統一された軍服を必要とする。ところが、従来の我が国の和服では様々な支障がでるため、積極的に西洋の軍に習い、洋式の軍服を取り入れてきた。洋装の活動性は、和服から格段に向上され、西洋からもたらされた各種の兵器の運用性にも適したものであった。防寒、防水などの概念も和服では乏しく、軍服の導入は兵士の機動性、能力保持等に大きく貢献した。また、統一された洋式軍服は、同一制式の多量の布、細工品等の生産を促すことになり、我が国の軽工業の発展の一助となった。兵士の軍服体験が洋服の普及に役立つと共に、軍隊からの廃品となった大量の軍服の払い下げも、日本人に洋服を着る機会をもたらせる結果となった。
 現在では、戦闘服も科学技術の進歩に伴って驚異的に発達している。例えば人間工学から生まれた形状、防寒、耐水性、防火性、あるいはナイフなどで斬りつけても裂けない繊維の使用、有毒ガスを吸着して人体に無害化するものなど高度に発達し、これらの軍事技術は民間にも応用されている。

      
  軍衣を着用した日清戦争当時の将兵

エ 靴の体験

 明治初期の日本人にとって、草履が一般的な履き物であったが、西洋から軍制を学びつつあった日本軍は、機能等を考慮し皮革製の軍靴を導入した。軍靴が制式化されると、兵士の機動性は極端に向上し、重武装による行軍も可能になった。軍靴の導入によって我が国の皮革工業が急激に発展すると共に、馬や牛の皮の輸入量が大幅に増大し貿易業も盛んになった。兵士の軍服体験による洋服の普及と同様に、靴の体験は兵士を通じて日本に広まり一種のエリート層の象徴とも考えられるようになった。
 軍靴が戦力に与えた影響は、一般にあまり知られていないが、例えば、終戦後、米軍の軍靴を見たある元日本兵は、これらが我々に与えられていたならば、行軍の際、3倍の機動力を持つことができたと言っていた。もう一点、有名な陸軍訓練事故であった八甲田山の雪中行軍で、生き残った将校のうち、2名は、当時日本に紹介されたばかりのゴム長靴を装着し、足指の凍傷を防ぎ生還したとされている。現在でも、実際に戦闘行動を行っている軍では、軍靴に対する研究が継続されており、ベトナムのような湿地帯で行動する場合、あるいはアラブの砂漠で行動する場合など、最も適する形式の軍靴がいろいろと研究されている。
 一般の例では、各種のスポーツに用いられる専門的なシューズなどを見れば、その性能が成績に大きな影響を持つことが理解できる。

      
       昭和20年まで製作した旧海軍の水兵靴 (大塚製靴株式会社)

オ 食生活の変化
 軍隊は、食生活の面でも日本の社会に変化をもたらした。食材の限界や伝統的味覚のあった社会でも、全国統一した食材や調理法の普及により、兵士が今まで郷里では味わうことのできなかった洋食の一端に触れる機会が、軍隊において広まっていった。例えば現在ではすでに日本食となったカレーライスなども帝国海軍の発祥であると言われており、その調理法なども紹介されている。軍隊において初めて豚や牛の肉を食したり、ビールを初めて飲んだという話は明治期に多く聞かれた。
 牛肉の場合、日清、日露の両戦争において大きく需要を伸ばしたのは、大和煮の缶詰の出現であった。和風の米に合う味付けと、保存・運搬に適した缶詰の組み合わせにより、軍隊で肉の味を覚え、肉好きになったものも多いといわれる。軍の食事は肉食の普及に大きな影響力を持っていたと考えられる。
 同様に、軍隊の食事で日本中に普及したのはパンであった。パンは、戦闘地域で食材を入手しやすいこと、炊飯を必要とする米食よりも、簡便で戦場においても有利であったことなどから、携帯食料(乾パン、ビスケットの類)としても活用された。

     
       帝国海軍のレシピで作ったカレー

* 海軍割烹術参考書(1908年9月1日)
原文:【初メ米ヲ洗ヒ置キ牛肉(鶏肉)玉葱、人参、馬鈴薯ヲ四角ニ恰モ賽ノ目ノ如ク細ク切リ別ニ「フライパン」ニ「ヘッド」ヲ布キ麥粉ヲ入レ狐色位ニ煎リ「カレイ粉」ヲ入レ「スープ」ニテ薄トロノ如ク溶シ之レニ前ニ切リ置キシ肉野菜ヲ少シク煎リテ入レ(馬鈴薯ハ人参玉葱ノ殆ンド煮エタルヲ入ル可シ)弱火ニ掛け煮込ミ置キ先ノ米ヲ「スープ」ニテ炊キ之ヲ皿ニ盛リ前ノ煮込ミシモノニ塩ニテ味ヲ付ケ飯ニ掛ケテ供卓ス此時漬物類即チ「チャツネ」ヲ付ケテ出スモノトス】

 このように、近代日本が国家として成長して行く過程において、中央集権化を必須とした軍隊の役割は、正面に立たなくとも、軍の生活を経験した兵士によって広く日本中に影響を与えることとなった。勿論、軍隊のみが普及に役立ったわけではないが、国家の背骨として我が国の近代化に大きな力を示したと言える。同様に、兵士としての経験を持つ者は、郷里において、地方の若者達から、新しい文化を広める国の近代化を担う先兵として注目を浴びることになった。軍隊生活を経験した元兵士達が、退役し、国元に帰郷すれば、上記の中央の文化が各地に伝えられ、彼等は村民より一歩進んだ文明人としての立場を有することになった。兵士であったという経験は、新しい文化をより早く入手できることとなり、周囲の住民にそれを伝えることができるという誇らしいものとして兵士の立場を向上させることになった。
 即ち、兵士は日本人の間から独立した存在であったわけではなく、兵役が終われば、またもとの一般の社会人に戻り、生活を続けた。そのため、兵士は日本の中央集権化と、文化の発展に寄与しただけでなく、日本人全般の兵士に対する見方を啓蒙することにもなった。兵士と一般の日本人の考え方に共通性をもたらせるために影響力を行使したと考えられる。

☆-------------------------------------------------------------------☆

《筆者紹介》
 大場(おおば) 一石(かずいし)
《略  歴》
 文学博士 元空将補
 1952年(昭和27年)東京都出身、都立上野高校から防衛大学校第19期。米空軍大学指揮幕僚課程卒。
 平成7年、空幕渉外班長時、膠原病発病、第一線から退き、研究職へ。大正大学大学院進学。「太平洋戦争における兵士の死生観についての研究」で文学博士号取得。
 平成26年2月、災害派遣時の隊員たちの心情をインタビューした『証言−自衛隊員たちの東日本大震災』(並木書房)出版。


               


つばさ会トップページ
死生観ノートトップ



著者近影